巻菱湖 王将 千字文

2023年・冬 販売開始 / 先行予約受付中!

やさしい書道 巻菱湖 王将 千字文
筆・鉛筆・ボールペンに対応した
習字手本

21年余り販売し続けてきた、巻菱湖記念時代館販売の『巻菱湖 楷書・行書 千字文』を文字を大きくリニューアルしました。それにより1点1画がよりよく見え初心者の方からでも習いやすい教材としました。練習用具は大筆・小筆・筆ペンに限らず、鉛筆・ボールペン等でも文字の形を練習していただけます。また、文字を目で見る・手でなぞるだけでも文字の形の修得になります。小学校低学年からご年配の方までと幅広い方々に使っていただける教材となっています。タイトルを『巻菱湖 王将 千字文』にした理由は、巻菱湖は将棋の駒でも有名で、数ある駒字の中を代表する7つの駒字の1つにもなっています。この巻菱湖の駒字は巻菱湖没後の大正の時代に作られたのですが、駒字を作る際に、この度使用している巻菱湖の千字文から文字を集字して作られたと伝わっています。このようなことからタイトルに『王将』を入れ『巻菱湖 王将 千字文』としました。

やさしい書道 王将 千字文
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やさしい書道 王将 千字文
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千字文とは...

千字文とは...

 『千字文』は中国・六朝時代の梁の周興嗣( ~五二一)によって撰せられた。千字文は「天地玄黄、宇宙洪荒」のように、四言の句二百五十句より成り、重複する文字はない。それ故古くより、習字手本によく使われている。
 江戸時代後期、巻菱湖の千字文の法帖(習字手本)は楷書・行書・草書・隷書・章草の『細字・千字文』と、楷書・行書・草書の『大字・千字文』の8種が刊行され、没後も再版を繰り返し、多くの者が巻菱湖の法帖で学んだ。
 また明治時代に入り、巻菱湖の弟子たちが所有していた肉筆(直筆)の様々な巻菱湖法帖(習字手本)を版元に貸出し数多くの法帖を刊行していく中で、楷書の『中字・千字文』や凸字版(白黒反転)の大字・千字文なども刊行された。
 巻菱湖の『正隷千字文(細字・楷書 千字文)』に、江戸後期の儒者で伊勢津藩士の斎藤拙堂の跋二十行がある。拙堂は、海内の書法を論ずる者は、まず指を菱湖に屈するといっている。菱湖は書家として最もすぐれているばかりでなく、書論でも当時第一の人であるというのである。さらに菱湖は「沈勁清潤、得率更之髄、信為精妙」といっている。「率更」は唐の欧陽詢である。菱湖は欧陽詢の筆意を会得して、その書は沈勁清潤にして精妙であるといって、激賞した。また、その跋によると、伊勢の津の藩主・藤堂高兌がその世子高猷の書法の師を選ぶにあたり、江戸・京都・大阪の名のある書家に家臣を入門させ、蘭亭帖の臨書を請い、その佳否を比較して菱湖を師としたのであるというのである。これは文政四年(菱湖四十五歳)のことであり、当時菱湖は必ずしも書家の第一と目されていたわけではなかったが、その後年の大成を予期したものである。
 『森銑三著作集続編』第十一巻に、菱湖の『千字文』について「明治・大正の新聞から」に、「菱湖の千字文」と題して、次のように書かれている。
 書家・巻菱湖の生前の人気は市河米庵に及ばなかったが、没後に至って米庵を圧する形となって、それが明治時代に及んだ。「菱湖先生書真草千字文、定価五十銭、全一冊」という広告が明治十四年一月の『読売新聞』に出て居り、その広告文には次のようにある。「我邦の能書の巻菱湖先生の法帖の夥なるは何万巻に満つるといへども、未だ真草二体対照の書なし。依りて新刻す。尤も中・小学教科書適当の法本なり。銀座二丁目、山中孝之助、同町、青木栄」と書いている。
 巻菱湖は生前多くの人に尊重されたが、没後ますます尊重されるようになり、菱湖法帖(習字手本)は千字文を筆頭に明治になっても続々刊行されたのである。
 巻菱湖の法帖(習字手本)は、現在知り得る限りで二〇〇種以上は刊行されている

【巻菱湖の将棋駒】の歴史

【巻菱湖の将棋駒】の歴史

『記事・菱湖の駒銘』より
 むかし、大阪に高濱禎という棋士がいた。
 実兄作蔵が五段で、禎は六段まで昇った。めずらしい兄弟高段者である。作蔵は阪田三吉の秘書のような役をつとめた事でよく知られ、禎は、無類の長考家として名高い。高濱兄弟は、阪田三吉の門弟ではない。いわば「客弟子」として教えを受けており、むしろ、後援者とみなすべきであろうと思う。
 阪田三吉に関する取材で大阪へ行き、その禎氏のご子息をお訪ねしたとき「こんなものが出てきましたが、お役に立ちますかね」と見せられた一冊の古ぼけた帳面があった。表紙には『萬おぼえ帖/大正五年拾壱月始』とある。内容は、知人の住所録、持ち家の所在地と坪数、家財道具のリスト、進物や到来物の覚え書きなどが主であるが、ところどころに将棋に関するメモが達筆のペン字で書き込まれてあった。一晩拝借して、ホテルで読み始めた私は、とうとう一睡もできなかった。お役に立ちますかねと息子さんは言われたが、私にとっては、持った手が震えたほどの、貴重な資料であることを見出したからである。そのうち一つをご紹介しよう。
 「菱湖」という駒銘がある事はどなたもご存知と思う。巻菱湖は江戸後期の書家。名は大任、字は致遠。越後の人で、江戸に出て亀田鵬斎に学び、中国風の書で一家を成し、「菱湖流」とよばれた。この人が、どういういきさつから将棋の駒の銘を書いたか………が、高濱禎のおぼえ帖に、はっきりと記されているのだ。
 結論を先に言ってしまう。実は菱湖は自分の書いた字が将棋の駒になった事など全然知らないはずである。あの世で聞いて苦笑していらっしゃるかもしれない。
 菱湖の駒は、高濱禎がつくった。大正八年二月に誕生した駒なのだった。
 『巻菱湖の文字而已を集めて駒の銘成らず哉と諸書を調書す』とある。而已は「のみ」と読むのだと思う。『(略)桂字見当たらず千字文の佳字並に他の木辺(偏)の文字を合すべきか』―桂馬の桂の字が菱湖の書の中にどうしても見当たらないから、佳の字のツクリと、他の文字の木偏とを合せるより仕方ないだろう、というメモだ。
 そして……『大正八年二月俊歩禎選篆字の駒草稿、流行性感冒にて病臥中考案』と記されている。俊歩は禎の俳号である。
 禎は、作った原稿を東京の駒師・豊島太郎吉に送って、幾組かの「菱湖駒」を作らせたのであった。この駒の製作費がどのくらいだったかはっきりしないが、当時、並の彫駒で二円くらいだった。とあり、駒好きだった禎と豊島の合作こそが、巻菱湖の駒銘といえよう。